教科書の印刷(2) 木口木版
木版のなかに木口木版というものがあります。西洋木版ともいわれまて挿絵につかわれます。明治20年ころまでは、木版の挿絵は(1)木版の項目で図版に示したように、本文とおなじ版木に彫られています。大きな板の面(板目)に版が彫られていたのです。これに対して木口木版は、丸太を切ったときに年輪がみられる面、つまり木口に版を彫刻刀で彫ったものです。版木になる木の種類はツゲ(黄楊・柘植)やツバキ(椿)がおもなものです。印鑑にもツゲがよくつかわれます。
教科書に木口木版が用いられたのは、明治20(1887)年6月『高等小学読本一』文部省編で翌21(1888)年5月出版の教科書の中の挿絵「日本武尊」(図1)で山本邦翠が画を描き、合田清が彫っています。絵の濃淡は線の密度で表わします。山本も合田もフランスに留学し、合田は西洋木版彫刻技術を学んで、明治20年7月に帰国しています。「日本武尊」はまだ上等な出来ではありませんでしたが、明治21(1888)年『高等小学読本七』の「徳川光圀」(図2)の木口木版はかなり良くできています。
挿絵の隅に「生巧館刀」「合田刀」と入っているように、合田清は木口木版技術を指導するために「生巧館」を創設して多くの技術者の教育にあたりました。教科書の挿絵に採用した木口木版について、「仏国風の彫刻に成れる挿画を用い、高尚で実に他にその類を見ない細美の彫刻である」といわれています。木口木版は挿絵画家ビュウイックがはじめ、1800年ころに最盛期を迎えました。フランスに伝わってその後全国に広く使われるようになって、わが国に伝えられたのです。
木口木版が精細なのは、版面の木材が堅く緻密なために、細かな線もきれいに彫れるからです。しかも多量の印刷をしても摩耗が少ないのも特徴です。
当時の教科書も和装本で用紙には和紙がつかわれていましたが、木口木版のページには洋紙が使われました。洋紙は紙の表面が和紙よりも平滑ですので、木口木版の繊細な絵柄がきれいに印刷できたからです。
教科書に採用された木口木版は大変な評判を生み、一般書籍・雑誌にもひろく使われるようになりました。それまで表紙には銅版がおおく使われていたのですが、この木口木版に替えられていきました。
木口木版は美術版画界にも新風をふきこみました。本来木版は絵師、彫り師、摺り師の三者の分業で作品が仕上がりました。渋谷の忠犬ハチ公など教科書の挿絵も描いた石井柏亭が唱えた、画も彫り、摺りまでも版画家が一人で手がけて作品を作りだそうという「刀画」です。明治37年の山本鼎「漁夫」の作品は有名です。
明治末期になると写真による網目写真版が実用化され、手間のかかる木口木版はあまり使われなくなります。しかし、昭和22(1947)年になって文部省『算数三』の挿絵(図3)に木口木版(図4)が使われます。終戦直後はあらゆる資材不足で、写真版に使う銅の板はまだ手に入らなかったからではないでしょうか。
(板倉雅宣)