17.修身‐その3
学制期に比較的自由であった教科書制度は、明治19年には検定制度となり、明治23年の「教育ニ關スル勅語」を受け、翌年には「小学校教則大綱」に「修身ハ教育に關スル勅語ノ旨趣ニ基キ…」と規定される。更に修身教科書の検定標準が公布され、修身教育の大綱が決定された。「例話はなるべく本邦人の事績で勧善的なもの」とされ、徳目反復主義の教科書が編纂されることになる。検定期の修身教科書の特色は、前期の徳目主義と後期の人物主義にほぼ大別できる。徳目主義のものは勅語の徳目を根本方針とし、必ず最初か
日清戦争(明治27~28年)の結果、欧米列強の中国分割が強まり、日本の国家主義も高揚した。その影響は修身教科書への不満に結びつき、国が編纂すべきとの声が高まった。翌明治29年には修身国定化の建議が提出される。外山正一が修身無用論を説き、福澤諭吉が「官制及び検定において良書が排斥される恐れ」を指摘するなど国定反対論も多かったが、貴族院にて議決され、翌年には衆議院においても修身教科書国定化の建議が採択される。文部省はこの動きに対応し、加藤弘之を委員長とする「修身教科書調査委員会」を設置した。さらに明治35年に【教科書疑獄事件】が起こると、それを契機に枢密院の
第一期国定修身書(尋小2,3,4年、高小1~4年)
前述した「修身教科書調査委員会」は3年の歳月をかけ〈勅語の趣旨に基づき発達段階に応じ徳目を授け、徳目主義と人物主義の長短得失を考慮する〉などの編纂要旨をまとめた。最初の国定教科書は、天皇・国体と家族に関する徳目より、国民の権利・義務及び博愛・親切・正直など社会性の強いものが多く、近代市民社会の倫理を重んじたとの評価が高い。しかし、その結果各方面から批判を浴びた。忠君思想を重視する側からは《忠孝の大義、祖先崇敬の教材が少なく、国に対する忠、家に対する孝を強調すべき》との批判が提出され、併せて登場人物や格言に西洋の色彩が強いことを問題にした。逆にこれと反対の立場のヘルバルト主義教育者は《低学年の徳目を教えるために仮設人物を設定する仮作物語は廃止し童話・寓話を採用すべき、甚だ忠孝の徳目に偏している》と抗議した。
第一期高等小学2学年用「人身の自由」
明治40年「小学校令」が改正され、義務教育が4年から6年に延長され、尋常小学校6年となった。これに伴い第一期国定教科書は改訂され、第二期の国定修身書が誕生した。折しもアジアの帝国主義化が進行する中、日露戦争の勝利により日本の国家主義・国粋主義が更に強くなり、そのことが第二期の内容修正に大きな影響を及ぼした。西洋の人物や格言は減少、市民的倫理が後退した。一方で「祝日・大祭日」「国旗」「靖国神社」「
*講談社昭和37年刊;日本教科書大系修身参照
※資料は全て東書文庫蔵
第二期尋常小学修身書(巻一~巻六)
第二期尋常小学修身書(巻二)「皇大神宮」と掛図
第二期尋常小学修身書(巻二)「チュウギ」と掛図
(荒井登美也)