14.文庫余話‐その3 エンゲルト・ケンペルの『日本誌』

2017年10月

>『日本誌』

『日本誌』(東書文庫蔵)1727年英訳版

ケンペル(E.Kaempfer 1651~1716)はドイツ北部の都市レムゴ出身の医師・博物学者である。ケンペルが活躍した17世紀末の欧州は、地動説が認識され始め、科学的・合理的なものの見方の追究が始まった時代であったが、一部に魔女裁判が根強く残っていた。江戸時代、長崎の「出島」のオランダ商館医として来日したケンペル、ツュンペリー、シーボルトは「出島の三学者」として名高い。3人とも年一回定例化した商館長(カピタン)の江戸参府に随行し、時の将軍に謁見している。ケンペルは7年の歳月をかけ元禄の日本にやって来た。そして窮屈な出島に2年滞在し、帰国後持ち帰った膨大な資料・記録をもとに、まず『廻国かいこく奇観きかん』を著す(1712年出版のラテン語の大著;ペルシャ中心にインド、日本も記述されている)。さらに日本に関する出版原稿の整理に没頭するが、発刊を見ずに没してしまう。その遺稿は英国の収集家ハンス・スローンに売られ、1727年『日本誌』英訳版がまずロンドンで出版された。東書文庫所蔵の『日本誌』はこの内の1冊である。直ぐにベストセラーとなり、続いて別の出版社から仏訳、蘭訳本が刊行され、18~19世紀における欧州人の日本像を長期に規定した。残念ながら英訳版の銅版画はケンペルの原画の持つ日本らしさを失っている。

1683年3月、学業を終えた31歳のケンペルは、スウェーデン王がペルシャへ派遣する使節団の秘書官となり、一路ペルシャを目指した。遠い国への未知の旅を熱望する冒険者には好機到来であった。ロシアのサンクトペテルブルグからモスクワに寄り、カスピ海北部に出て南下し、ペルシャのイスファハンに到着したのは翌年3月であった。モスクワではまだ少年のピョートル1世に拝謁した。その印象を非常に聡明であると書き残している。その後、ペルシャ王との謁見を終えると、ケンペルの心のうちに、さらに東方への旅への強い意欲がわき上がり、使節団の職を辞す。手を尽くしやっとのことで東インド会社(世界初の株式会社で艦隊を保有した近代的貿易会社)の上級医の職を得て、インド及び中国を目的地とした。1685年11月、東インド会社の商隊と共にイスファハンを出発、翌月ホルムズ湾の交易港バンダルアッパースに着くが、迎えたのは過酷な環境下の2年半の生活であった。この土地は気候状態が悪く、世界で最も汚く不健康とケンペルは記している。ペルシャでの経験、観測は『廻国奇観』に詳しい。 1688年8月、ようやくインドへ到着する。しかし、この国の宗教やタバコ・麻薬の蔓延にいたく幻滅し、翌年10月バタヴィア(現ジャカルタ)に到る。この地は東インド会社のアジアの拠点であり、植物の楽園と呼ばれていた。彼は植物や風俗習慣を広範に記録するが、この国にも満足することはできなかった。

>江戸参府旅行図

江戸参府旅行図(○がケンペル)

>江戸城での綱吉との謁見の図

江戸城での綱吉との謁見の図

出島の商館医という職を紹介された時、ケンペルは飛びついた。1690年9月、ケンペルを乗せた木造帆船ワールストローム号は二度の嵐を乗りきり、やっと長崎の港に入った。ケンペルは江戸参府で五代将軍綱吉に二度拝謁し、日本では「犬公方」と呼ばれていた綱吉を善良で公正賢明な君主と述べている。『日本誌』は日本の地理的概要に始まり、動植物、気候、言語、教育、天皇・将軍の歴史、庶民の生活、宗教祭祀、江戸参府と京都の寺院、長崎と対外貿易などを包括的に記している。ケンペルは歴史家・西洋の優越者の眼からではなく、一人の観察者として見たままの日本を記録した。大英図書館にはケンペルが描いた方広寺ほうこうじの木造大仏のスケッチ画や庶民生活に関する多くのメモや画などが所蔵されている。日本には残存してない当時の日本の特色を今日に留めてくれている。

(ボダルト=ベイリー著、中直一訳『ケンペル』ミネルヴァ書房2009年刊を参照)

長崎港の地図

長崎港の地図(中央に出島)

日本語の一覧表

日本語の一覧表


(荒井登美也)