13.水戸学とその学者たち
2017年9月
藤田東湖と東湖全集 明冶42年刊(東書文庫蔵)
これまで日本の私塾や文庫所蔵の貴重書を見てきたが、日本の学問は漢学を基礎とし、蘭学・洋学に感応しながら、外圧を利用し自ら変化し近代化を成立させた。今回そこへ誘導した尊王攘夷(以後尊攘)思想に触れたい。教育から振り返る日本-松下村塾-その1で吉田松陰や志士たちに大きな影響を与えた会沢正志斎の『新論』を紹介したが、正志斎は藤田幽谷、東湖父子と並ぶ後期水戸学を代表する学者である。藤田父子は青藍舎、正志斎は南街塾という私塾を開いている。三人とも水戸藩の史局「彰考館」、藩校「弘道館」で重要な役割を担っていた。
徳川光圀画像(東書文庫蔵)
そもそも水戸学は徳川光圀の『大日本史』編纂事業に始まる。光圀は江戸藩邸に多くの学者を集め、「彰考館」を開き、史料収集・編纂事業を展開した。大日本史編纂の他、国学・天文暦学・数学・地理・神道・兵学など多くの著書編纂物を残した。これが前期水戸学である。この編纂事業を通して天皇家への忠誠心が培われた。譜代の水戸藩から倒幕に結びついた尊皇思想が育まれた理由はここにある。水戸学の尊王論は天皇一君に万民が同等に仕えるのではなく、将軍-諸侯-武士が秩序関係を保っておこなわれ、「幕府が皇室を敬すれば諸侯が幕府を尊び、武士が諸侯を敬する」構造である。水戸尊王論は敬幕を前提にしており幕府の存在を否定するものではなかった。
文政7(1824)年、常陸大津浜に英捕鯨船が停泊し、船員12名が上陸し水と新鮮な野菜を要求した。彼らと会見した正志斎は欧米諸国の真意が世界征服、植民地化にあることを知る。しかし幕府は薪水・食料を与えて帰国させた。正志斎や幽谷一門の学者たちはこの生ぬるい対応を批判、攘夷運動に繋がった。翌年正志斎は尊攘論を体系化した『新論』を著し八代藩主斉脩に呈上するが内容が過激であるという理由から公に出版されなかった。しかし、密かに幕末尊攘志士のバイブルとなった。この時期異国船の水戸藩近海への接近は頻繁である。その度に城下は緊張し藩も海防を固めた。寛政4(1792)年、露使節ラクスマンが根室に来航する。幽谷はこのロシア南下政策に興味を寄せ調査をしている。正志斎もロシアの国情を『千島異聞』に纏めた。この頃から水戸学派の内部には対外問題への関心がすでに高まっていた。
譯註大日本史12巻 昭和13年刊(東書文庫蔵)
安政5(1858)年、将軍継嗣問題で島津斉彬や九代水戸藩主徳川斉昭と対立していた南紀派の井伊直弼が大老に就任し、朝廷に無勅許で通商条約の調印を強行し、徳川慶福を十四代将軍に決定してしまう。この違勅調印と継嗣に怒った孝明天皇や一橋派の大名、尊攘の志士から非難の怒号が上がる。しかし井伊は強硬策を執り、斉昭や松平春嶽らを隠居謹慎とし、橋本佐内や吉田松陰を捕らえ死刑とした(安政の大獄)。この弾圧に憤激した水戸脱藩の志士により万延元(1860)年、井伊は桜田門外で暗殺される。改革派斉昭も安政二年の大地震でブレーン藤田東湖を失い、井伊との政争に敗れ蟄居のまま亡くなる。その後、馬関、薩英戦争で欧米の火器の威力に攘夷を砕かれた長州、薩摩は、迷走した幕府を倒し、近代化へと大きく舵を切る。政治を為政者の側から見た水戸尊攘論は維新の源流とはなるが、国民を糾合する倒幕力にはなれなかった。
(荒井登美也)