12.文庫余話‐その2『瀛環志略』

2017年8月

「日本の私塾」の連載は休み、文庫所蔵の貴重書からこぼれ話第2弾をお届けする。『瀛環志略』とは、1849年に清の徐継畬じょけいよが著した地誌書である。〈えいYing〉とは大海の意で〈瀛環えいかんYinghuan〉で全世界という意味になる。現代的に言えば簡潔にまとめた「大世界地理」であろう。簡潔にと表現したが日本版でも全十巻からなる大著である。日本では少し遅れて文久元(1861)年に徳島藩から出版された。徐継畬(1795~1873)は清の山西の人、31歳で進士しんし(科挙の試験に合格した者の称)に、1842年には福建省の民政・財務長官となった。また、阿片戦争(1840~42)終結のために結ばれた南京条約により開港した厦門アモイ福州フクシュウの貿易事務も統括し、多方面の欧米人と交流した。それにより獲得した近代世界の知識を生かし、5年の歳月をかけ完成させたのが『瀛環志略』である。阿片戦争を自分のまなこで見て、イギリスの近代的火器の圧倒的強さと清国の遅れを知らされ、西洋に学ぶ必要を確信した。『瀛環志略』はこれより少し前の地誌書『海国かいこく図志ずし』より知名度は下がるものの、西洋地理の記述はより正確であったと言われる。詳細な各国、各地域図が付されている。

>瀛環志略 扉

瀛環志略 扉(東書文庫蔵)

>瀛環志略全10巻

瀛環志略全10巻(東書文庫蔵)

>第1巻 世界全図 画像1
>第1巻 世界全図 画像2

第1巻 世界全図(東書文庫蔵)


ここで『海国図志』にも触れておきたい。残念ながら東書文庫には無い。阿片戦争に敗れた清の欽差きんさ大臣林則徐りんそくじょの盟友にして、当時の知識人魏源ぎげんによって初版五十巻が1842年に刊行された(*欽差大臣とは皇帝の勅命を受けた大臣)。その後1847年に六十巻に、1852年に百巻に増補されている。清朝のイギリスへの降伏という弱腰に憤り国家的危機を感じた魏源により、林則徐の意を受け編纂された。欧米情勢を分析し、近代的軍備と中国の強化を訴えた実用的な地誌である。東アジアにおける初めての本格的な世界地理書であった。必然、日本にも輸入され、ある研究者の調べでは安政元(1854)年から安政3(1856)年にかけ、『海国図志』の翻訳22種類が集中的して出版されている。海防顧問であった佐久間象山や吉田松陰、橋本佐内、西郷隆盛といった幕末の志士のみならず幕府高官川路かわじ聖謨としあきらにも深い感銘を与えた。幕府はただ蒙昧もうまいではなく、海外諸国の情勢はかなり詳細に把握し、開国の必要性も認識していた。清の敗北とその状況は清からもオランダからも日本に即座にもたらされていた。前述の研究者は、敗北の衝撃は清朝の高官や知識人に与えたより、日本の政治家や知識人に与えた方が大きかったという。

当時の日本は、幕府の財政・権威の弱体化に加え、欧米国家のアジア進出で、まさに「内憂外患」であった。阿片戦争に続くアロー戦争にも敗北し、欧米との立ち遅れを知らされた清末の中国と同様であった。清末の洋務ようむ運動と明治政府の殖産興業は、時も同じくし、西洋の科学技術の受容により近代化を図ることにおいて正に同質である。『瀛環志略』や『海国図志』ほど、日本に影響を与えた本は少ない。おかげで日本は欧米の植民地とならずに近代化の道を歩めた。江戸期の教育の普及と出版文化の高さに敬服する。

第1巻 東洋二国の日本の記述

第1巻 東洋二国の日本の記述(東書文庫蔵)

第1巻 東洋二国の日本の地図

第1巻 東洋二国の日本の地図(東書文庫蔵)

第7巻 イギリスの地図

第7巻 イギリスの地図(東書文庫蔵)


(荒井登美也)