10.洗心洞塾

2017年7月

「洗心洞」は大塩平八郎が現在の大阪市北区の天満一丁目の地に開いた私塾であり、洗心洞跡碑が造幣局の官舎内に建てられている。その名は易経の「自利私欲を洗い去る」に因んだ。大塩は当時大坂東町奉行所の与力であり、その役宅において開塾し「陽明ようめい学」を講じた。開塾時期の記録はないが、文政4~7(1824~1827)年にかけてと推測される。学問の師は明確でなく独学に近い。20代後半の時、中国明代に呂坤りょこんが著した『呻吟語しんぎんご』に出会い、朱子学に批判を加え実行を旨とする陽明学に傾倒していった。強いて呼べば「孔孟学」であると自身では言っている。研究者によると塾生と門弟はおよそ70名である。その大半は与力であるが周辺農村の富農が多かった事も特色である。天保4年に著された『洗心洞劄記さっき』が代表的著作である。佐藤一斎の『言志四録げんししろく』と並び、幕末以降現代まで指導者の「バイブル」とされ、あの西郷や松陰も深く感化された。

造幣局官舎内の復元与力宅

造幣局官舎内の復元与力宅


大塩は寛政5(1793)年、欧米列強が植民地と市場を求めてアジアへ進出しようとするころ、大坂の代々与力を務める家柄に8代目として生まれた。通称平八郎、号は中斎ちゅうさい。14歳で見習いとして出仕し38歳で退職するまで職務に精励し、実績を上げ名与力と謳われた。特に文政12(1829)年の奸吏かんり糾弾は人々が絶賛した。西町奉行のお気に入りである与力弓削ゆげ新左衛門とその仲間の「不正無尽むじん」を暴き、弓削を切腹に仲間の役人らを処刑に追いこんだ事件である(無尽:多くの人が金を出しあい籤等で配当を決める相互扶助システム、江戸期に流行)。大塩は上司の東町奉行高井実徳さねのりの信頼と支持を受けていた。しかし、奉行所内部では様々な利権や腐敗がうごめく、大塩の清廉潔白さは奉行所内の人間から恨みを買い疑心を抱かれることになる。天保元(1830)年高井の退職を機に与力を辞職し、弟子の一人格之助を養子に迎え、職を譲り隠居し洗心洞で教育に専念した。

大坂地圖

大坂地圖:天保8 年大塩の乱の年出版された(東書文庫蔵)


天保3(1832)年から、凶作により全国的な米不足となり厳しい飢饉に見舞われた。津々浦々に困窮者が満ち、百姓一揆・打ちこわしが続発し、幕府や諸藩は効果的な対策を打てなかった。特に天保7~8(1836~1837)年の飢饉はひどく大坂でも餓死者が溢れた。その惨状を前に、大坂東町奉行跡部あとべ山城守やましろのかみらは何ら救済策を取らず、悪徳商人と結託し米価を吊り上げ、幕府におもねり江戸へ廻米かいまいし、自分たちだけが豪奢な生活を送っていた。大塩は何度か救済策を奉行所に上申し、また三井・鴻池の豪商に助力を求めるもなしつぶて。自らの蔵書売却の六百両を、窮民きゅうみんに分け与えた。天保8(1837)年2月29日朝、天満橋(現大阪市北区)に砲声が轟いた。大塩が自宅に火を放ち、役人・豪商に天誅を加えるべく「救民きゅうみん」の旗を掲げ、弟子や富農、百姓らと挙兵したのである。三百人に膨れた一隊は天満から船場(現大阪市中央区)に進撃し豪商宅を焼き討ちしたが、僅か8時間で鎮圧された。厳重な探索にも拘らず大塩父子のみが消息を絶った。しかし40日後潜伏先を突き止められ、予て用意の火薬で爆死した。大塩は蜂起の前、参加を求める「檄文」を近隣の村々に送り、更に幕府要人の不正を告発する「建議書」を老中と他2名に送った。乱後の大塩の逃亡はその結果を待つ為であった。だが何も起こることはなかった。この30年後明治維新を迎える。大塩の乱は、新しい時代へ向かう胎動であった。

成正寺本堂前の大塩父子の墓

成正寺本堂前の大塩父子の墓


成正寺本堂前の大塩父子の墓
大塩平八郎終焉の碑

大塩平八郎終焉の碑


(荒井登美也)