6.堀川塾
2017年3月
伊藤仁斎(東書文庫蔵)
伊藤仁斎は、寛永4 (1627) 年現在の京都堀川に生まれた。生家は材木商、11歳から「四書」を学んだ。江戸時代前期の漢学者である。宝永2(1705)年享年79にて没。仁斎が生きた時代は、長い戦乱から抜け出し、家光の武断政治により幕藩体制が固まった時である。儒学も、朝廷や禅宗五山のような特権階級で趣味的に行われていたものが、藤原惺窩や林羅山の啓蒙活動と家康の庇護によって広く公開されることとなった。このことが梃となって近世漢学私塾が発達する。家康に登用された羅山は家光の侍講となり、幕政に深く関わる。羅山が幕府からその学識を重用されたのをはじめとして当時の儒学者はその学識、文筆力故に諸侯から厚く遇された。しかし、これとは対象に市井にあって学問の研究と人材の育英に専念する学者も多く見られる。松永尺五、山崎闇斎、中江藤樹などである。これらの私塾は幕藩権力外にあったため、自由な塾風を有することができた。伊藤仁斎が活躍したのはこの後の寛文~元禄年間で、藩校も私塾も飛躍的に増加する。仁斎が堀川の生家に家塾「古義堂」を開いたのは35才の時である。彼は一生涯いずれの藩にも仕えず、町の学者として全うした。その塾生は仁斎が教えただけでも3,000人を数えたといわれる。また、子孫が長く学派を伝え、明治39年まで244年間存続した。「古義」とは孔子・孟子の言葉が本来秘める意味において儒学を考えることで、古に戻る意味で「古義学」と称し、その塾名を「古義堂」とした。仁斎は朱熹らの宋学(羅山が信奉した朱子学)を孔子・孟子の本来のものと異なるとし、批判した。万人共通の倫理を表したものが「論語」で、その思想を敷衍したのが老子であるとした。
伊藤仁斎宅(古義堂)跡
元禄という時代は、五代将軍綱吉が朱子学を官学とし、諸藩に奨励したため、日本において儒教が広く興隆した時であった。それには二つの大きな要因がある。第一は、家光の死後、諸大名の取り潰しや国替えの犠牲になった推定40万の浪人が世情にあふれた。さらには、太平が続くため遊民化した武士が世情不安を醸した。その状況を解消するため、文武両道という新しい武士像が必要となった。第二は新田開発、農業技術の向上、品種改良、諸産業の発展、商品の全国流通により、生産量が向上し町民も経済的、文化的に進出した。その結果、学問人口が大幅に増加し出版文化や町人文芸も花開く。そして私塾も地方への拡大がなされた。幕末、ペリー提督も日本の田舎にまで本屋があることや、日本人の本好きと識字率の高さに驚いた。
中等国語讀本
(明治26刊、東書文庫蔵)
女子修身書
(大正14刊、東書文庫蔵)
(荒井登美也)