3.藤樹書院
2016年11月
今回より実在した私塾を具体的に取り上げてみたい。私塾の概念的考察・分類への深入りは避けるが、海原徹著「近世私塾の研究」によれば1,300 校余りが江戸期に開設されている。今回はその中で早期に属する中江藤樹(1608~1648)の「藤樹書院」を取り上げる。藤樹は近江小川村(現滋賀県高島市)で関ヶ原の戦いと大坂夏の陣の中間に生まれた。喘息の持病があり短命であった。戦前の修身や旧制中学、高等女学校の読本などに近江聖人として収められている。一般的には日本の陽明学派の祖と称される。藤樹が生きた時代は、仏教に代わり儒教が力を持ちはじめた変化の時代であった。
中江藤樹
(東書文庫:掛図歴史科教授用参考掛図第4輯より)
藤樹の父は農業を営んでいた。藤樹は9歳の時祖父の養子となり武士になる。祖父が仕える米子藩加藤家は間もなく伊予の国大洲(愛媛県)に転封となった。それに伴い藤樹も伊予風早に移りそこで成人する。祖父は農民の子藤樹に文字や文章を習わせることに熱心で、師をつけ『庭訓往来』や『貞永式目』を学ばせた。11歳にして『大学』に出会い学問に志を立てたといわれる。27 歳で母への孝行と健康を理由に藩に辞職願を出すが認めらない。やむにやまれず脱藩し郷里小川村に帰り私塾「藤樹書院」を開く。藤樹は朱子学から入るがやがて陽明学に傾倒していく。前号で書いたが林羅山は家康に君臣道徳を説き、武士を支配階級に位置づけ、僧号を得て政治に身を置いた。儒教の説く道徳性と相容れない面がある。藤樹は羅山を《生まれつきの才人で広く書物を読み漁り、それを覚えて口にするだけの鸚鵡となんら変わらない、人の正しい道をふさぐ雑草》と酷評している。
中江藤樹が収められた修身・読本の教科書(東書文庫)
藤樹の思想を最もよく表しているのはその弟子熊沢蕃山の生き方であろう。蕃山も独学で朱子学を学んでいたが、満足を得られず師を探し始める。旅の途中同宿した飛脚から、村人に人の道を説く藤樹の高名を聞き、弟子入りする。藤樹34歳、蕃山23歳であった。蕃山は備前岡山藩池田光正に仕えた経世家(儒教の経世済民を行う政治経済論者)である。零細農民救済や土木事業で業績を上げ、光正へ与えた陽明学的影響も大きく、信頼を得る。しかし、藩内からの嫉みに加え、その思想に対して幕府顧問林羅山から「耶蘇教の変法」との厳しい誹りを受け、やがて隠居に追いやられ、最後は下総国古河藩の預かりとなり蟄居謹慎のまま最期を迎えた。
陽明学派には藤樹・蕃山以外にも大塩平八郎や言志四録の著者佐藤一斎、幕末維新の吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通など時代の変革者がいると言われる。日本の儒学は、封建権力と結びついた林家の流れとそれを批判する反体制的な流れに分裂する。藤樹は『翁問答』の中で《臣下の良きも悪しきも、国の乱れるも治まるも、畢竟主君の心ひとつにあり》と述べ、上位者も[聖賢の道]の支配を受けるとしている。藤樹の学流は反体制の一派であり、この学派は藤樹没後にかなり厳しい政治弾圧を受ける。藤樹にとれば、武士階級が主君に隷属する体制に組み込まれることへの純粋な反抗なのだが、明治以降修身の教材になるとは誠に皮肉である。
翁問答(東書文庫蔵:士道のあるべき姿が記されている)
(荒井登美也)