2.近世日本の思想と学問
2016年7月
日本は西洋文明というグローバルスタンダードを眼前にして、開国から一気に富国強兵をめざし文明開化主義に大きく舵を切る。近代化を支えた近世の私塾・藩校を辿るまえに、そこに至る学問・思想の流れを簡単に概観しておきたい。
中国において、春秋時代末期(前500年頃)に生まれた『儒教』が日本に伝わったのは4,5世紀頃といわれている。徳川幕府による朱子学を中核とする儒教政策は、林羅山から始まるが、朱子学を日本にもたらしたのは豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)である。
そもそも朱子学という儒学の一派は、南宋の朱子によって大成された学問であるが、李朝下(15世紀頃)の朝鮮において隆盛を極めていた。おびただしい数の書籍が日本に持ち込まれ、朝鮮の朱子学者も連れて来られた。
安土桃山から江戸前期、日本には藤原惺窩という朱子学者がいた。家康もかなり学問好きで『論語』や『貞観政要』(*唐の太宗の政治言行録、帝王学の教科書)などに関心を持ち惺窩から講義を聞いたようである。
天下統一の思想的柱となるものとして朱子学に関心を持っていたのであろう。
羅山は1604年、惺窩に出会い朱子学の教えを乞う。惺窩は弟子の英明さに驚き、自分は仕官を好まなかったので羅山を家康に合わせた。
家康によりその才を認められた羅山はその後4代将軍家綱まで仕えた。羅山は3代家光の侍講(*主君に対して学問を講じる職)となり寛永12(1663)年「武家諸法度」を起草している。徳川幕府の土台作りに大きく関わり様々な制度・儀礼を定めている。幕府の教学の礎も羅山が築いたものである。
家光から上野忍岡に土地を与えられ、私塾(学問所)と孔子廟を建てている。羅山死後も林家と幕府の関係は深まり、元禄3(1690)年5代将軍綱吉の湯島聖堂建設で最高潮に達する。
しかし、8代将軍吉宗は理念的な朱子学よりも実学を好み、加えて古学派の台頭もあり朱子学はその後不振となっていく。田沼時代が終わり、天明の飢饉に続いて起きた全国規模の打ちこわしなどにより、低下した幕府財政・権威の立て直し、士風の引き締めのため、松平定信による改革が行われた。
寛政2(1790)年思想の面でも上下の秩序と農業重視の朱子学を正学とし、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の講義や研究を禁じた。数年後、荒廃していた聖堂の改修を行い、林家の運営から切り離し幕府直轄の学問所(昌平黌)とした。
ただし、この「寛政異学の禁」は昌平黌など幕府教育機関における異学講義を禁じることを目的とし、他の異学派の私塾等における講義が禁じられたのではなかった。
湯島聖堂大成殿(大成とは孔子廟の正殿の名称)
学問・教育の発達はその時代の政治的・社会的背景によって決定づけられると言って過言ではない。戦国の世が終焉を迎えた為に、新しい武士像を作り、かつ教化するという封建権力への奉仕を期待され、儒学が社会的な地位を得た。江戸初期の儒者はその学識ゆえ将軍や諸侯から厚遇されている。
しかし逆に権力と結びつくことなく巷間にあって学問研究と育英に尽力する学者も多かった。綱吉の時代は、太平の世の治者としての教養・行政能力を備えた武士像を明示し、教化する必要があった。[文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと]と武家諸法度を改めている。(*元禄期以降藩士教化のため藩校が増加し、私塾も隆盛している。)一方、西洋の学術・知識の移入は鎖国下にあるため困難であった。
実学を重んじた吉宗は「漢訳洋書輸入制限」を緩和し、また青木昆陽、野呂元上にオランダ語を学ばせた。蘭学がいち早く取り入れられたのは医学分野であって、安永3(1774)年の前野良沢、杉田玄白らによる「解体新書」刊行は画期的な成果である。それが契機となり蘭学は各分野で隆盛を誇った。そして後年、日本における洋学へと繋がっていく。1850年代にはすでに佐賀、薩摩、伊豆などに洋式砲を作れる反射炉が出来上がっていることはその証左であろう。
他方では、江戸中期から「国学」が興隆し、儒教に対峙して思想体系として確立されていき、復古神道から尊皇思想※1に発展する。儒教においても、正学に発展した朱子学に対して、反体制的な側面を持つ「陽明学」が盛んになり、「水戸学」とも親和性を持ち、幕末の革命イデオロギーとして機能することとなる。次号から、具体的に特色ある私塾や藩校を取り上げる。
(荒井登美也)