東書文庫の思い出
博士課程の学生であった1960年前後の5年間、私の研究室は「東書文庫」と「上野図書館」であった。
『明治教授理論史研究―公教育教授定型の形成』(評論社)の書名で刊行された私の学位論文の中心となる資料は、明治期の教授法書、教科書、中央・地方の教育雑誌、学校に保管されている資料などだったが、東書文庫は教授法書、教科書を調べるベースであった。
毎日のように通い始めてひと月ほどたった頃、文庫長の林実元先生が「どうぞ書庫を自由にごらんください」と書庫への立ち入りを許してくださった。広い書庫の中をくまなく調べているうちに、片隅に未登録の教授法書がまとめて置かれているのを発見した。師範学校教科書として文部省に検定を受けるために提出された本で、検定官の付箋つきの本である。それらは私の研究にとって何よりも重要な資料であり、予想外の収穫であった。林先生のお話では、戦前に文部省から移管されたものということであった。
一方の上野図書館では特別閲覧室の利用が許され、広い棚に大量の雑誌を借りて読むことができた。その部屋のもう一人の常連は朝鮮史研究の山辺健太郎氏だった。
ゼロックス以前の時代である。資料集めとは、一冊一冊をていねいに読み、必要な部分を選び、書き写すことであった。毎日のように通うほかないのである。そしてそのことが、林先生の書庫立ち入り許可をいただいた理由になったのだと思う。大まかに見当をつけ、ゼロックスにとって帰る効率的な現在の資料集めとは程遠い時代であったが、そのことが貴重な資料の発見につながったことは幸いであった。刊行された本をお届けしたとき、林先生はわがことのように喜んでくださった。
その後20余年を経て、仲新、佐藤秀夫両氏と『近代日本教科書教授法資料集成』(全12巻・東京書籍)を編集した。4巻から成る教授法書編の資料の主体は東書文庫所蔵本である。二度あることは三度あるという。定年後、もう一度ゆっくりと東書文庫のお世話になることが、現在の私の願いである。
(稲垣忠彦)
(「東京書籍の歩み―1980年代史」平成2年12月発行より)