図1
活字(図1)は高さ23.45mmの四角い鉛合金の片面に凸状の文字がついた凸版です。文字は一字ずつばらばらになっていて,文章によって組み替えができる版です。固定されておらず,自由に動かして組むことができる(movable type)という意味から,活きている字なのです。
活字の材質は,木や銅や錫,鉛合金などの金属活字があります。朝鮮から伝わった銅活字は徳川家康の「群書類従」を印刷したことでが有名ですが,現在は使われません。本の表紙の金箔の箔押しは真鍮の凸版で押されます。木活字は金属活字が出来るまでは時々作られたものですがあまり一般的ではありません。
わがくにの金属活字は明治2年に長崎に来た上海の美華書館のウイリアム・ガンブルの指導を受けた長崎製鉄所の本木昌造,平野富二が企業化して広まったものです。
教科書に金属活字が使われたのものに,明治3年大学東校「化学訓蒙」があります。この活字は東校(後の東大医学部)の写字生島霞谷が独自に作った活字をつかっています。写字生というのは,当時の書物は筆で書き写して本を作っていましたので,文字を書き写す専門の人です。同じ時期に長崎県版「単語篇」という文字を覚えるための教科書が発行されました。その上巻の本文はほぼ曲尺五分(約15mm)角の初号という木活字で印刷されています。ページに相当する丁数を示す活字などには,本木昌造が上海の美華書館から手に入れたか,ガンブルに教えられた方法で作った活字かは判りませんが,初号の半分の大きさの2号という大きさの金属活字で印刷されています。(図2) 下巻の本文活字はすべて2号活字で,文部省で明治5年に発行された「単語篇」の内容と同じになっています。4号活字で印刷された「官版単語篇」も出されています。
福沢諭吉「学問のすすめ」は17巻まで出版されていますが,明治4年に出版された1~3巻までは木版で,明治7年の4~11篇は活字となり,12編以降はまた木版に戻るという具合でした。
明治31年10月文部省告示第61号でそれまで規定のなかった文字の大きさ,字間,行間,行長までが規定しました。活字の大きさは号数にポイントを併記して示されました。
和文活字の文字の大きさを示す単位は,号数でした。初号,1号,2号というように数字の小さいほうが大きい活字です。ポイント単位については業界にまだ浸透していない時期でした。1ポイントの大きさはもともと0.3514 mmでしたが,コンピューターで扱うようになった現在では0.3528 mm(1/72inch = DTPpoint) となっています。
活字の書体には名称がつけられています。わたしたちが普段読んでいる文字は明朝体です。低学年の国語の教科書につかわれている文字は教科書体といわれ楷書体の部類です。太字で線の太さが同じ文字はゴシックといい,線の端が丸いものを特に丸ゴシックというように多くの書体があります。(図3)
「単語篇」以降に本格的に教科書に活字を採用したのは,明治20年です。文部省編集「尋常小学読本 巻之一」の本文漢字の大きさは1号活字で,ひらがなは2号活字が使われています。「第一課」という見出しは4号活字です。(図4) しかし文部省以外の教科書はあいかわらず木版でした。
国光社の「尋常小学読本」は,明治28年2月に明朝体活字で印刷しましたが,11月には木版になり,32年10月には楷書体の活字になっています。一般的には活字の採用は安定していませんでした。同様に,明治36年の文部省「尋常小学読本」の見本(図5)は明朝体ですが,37年の博進社の本(図6)は楷書体,39年の博文館のもの(図7)は木版になっています。
昭和8年に教科書に色刷りが多くつかわれた「サイタ サイタ サクラノ ハナ ガ」で知られる「小学国語読本 巻一」がうまれました。その巻五以上には文部省で特別につくった楷書体が採用されました。これが教科書体(図8)といわれるものです。教科書体に関しては別項を参照してください。
現在,活字はあまり使用されていません。今の教科書の文字は写真植字機で組まれます。初期の写真植字機は白く抜けた文字を並べたガラス板を透して印画紙に一文字ずつ写真をとるという方式でしたが,現在はコンピューターで組み版処理した文字を印画紙(CTS方式)やフィルム(CTF方式),あるいは直接版材に焼き付け(CTP方式)てつくります。文章を1頁にまとめて組んだものを自動的に4頁単位に配置(面付け)し,それをさらに2-8面を版に焼き付けて紙に印刷します。
活字の材質は,木や銅や錫,鉛合金などの金属活字があります。朝鮮から伝わった銅活字は徳川家康の「群書類従」を印刷したことでが有名ですが,現在は使われません。本の表紙の金箔の箔押しは真鍮の凸版で押されます。木活字は金属活字が出来るまでは時々作られたものですがあまり一般的ではありません。
わがくにの金属活字は明治2年に長崎に来た上海の美華書館のウイリアム・ガンブルの指導を受けた長崎製鉄所の本木昌造,平野富二が企業化して広まったものです。
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福沢諭吉「学問のすすめ」は17巻まで出版されていますが,明治4年に出版された1~3巻までは木版で,明治7年の4~11篇は活字となり,12編以降はまた木版に戻るという具合でした。
明治31年10月文部省告示第61号でそれまで規定のなかった文字の大きさ,字間,行間,行長までが規定しました。活字の大きさは号数にポイントを併記して示されました。
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現在,活字はあまり使用されていません。今の教科書の文字は写真植字機で組まれます。初期の写真植字機は白く抜けた文字を並べたガラス板を透して印画紙に一文字ずつ写真をとるという方式でしたが,現在はコンピューターで組み版処理した文字を印画紙(CTS方式)やフィルム(CTF方式),あるいは直接版材に焼き付け(CTP方式)てつくります。文章を1頁にまとめて組んだものを自動的に4頁単位に配置(面付け)し,それをさらに2-8面を版に焼き付けて紙に印刷します。














