教科書の内容でさし絵のはたらきが重要であることは衆目の一致するところである。さし絵を通じてその時代時代にふさわしい教科書作りに寄与し、子どもたちの学習理解を助けその精神育成にも大きな役割を果たしてきたことは誰もが認めることである。ここでは小学校用国語教科書に登場する画家たちを時代推移で追ってみることにした。
その代表的な例が、「東京書籍」と「二葉図書」の国語教科書(ともに昭和26年全学年シリーズ完成)に見られる。国定教科書翻刻発行会社から検定教科書に参入した東京書籍の『新しい国語』柳田國男ほか編では、国定教科書時代の『読本』や戦後の文部省著作教科書『国語』がそうであったようにさし絵画家の起用は1冊あたり1人である。それに対し児童書の発行会社から検定教科書に参入した二葉図書の『国語の本』西原慶一ほか編では、学年によって違いもあるが1冊に10人前後のさし絵画家を採用している。なお東京書籍と同じように国定教科書翻刻発行会社から検定教科書発行会社として再出発した日本書籍、大阪書籍もほぼ1冊につき1人の画家を採用しているのも興味深いことである。
昭和28年~35年の第2期になると第1期での経験を生かした画家の起用がなされるようになり、単元や教材内容にあわせた画家を選択するようになった。
戦後の教育復興にかけた関係者の意気込みがさし絵画家の起用にも現れ、水準の高い画家選びがなされている。大沢昌助、斎藤長三、鷹山宇一、田村孝之介、中尾 彰、堀 文子、向井潤吉、山下大五郎など当時の若手中堅画家の起用が目立ち、その画家たちが後には画壇の指導的重鎮になられたということは当時の編集者の鑑識眼が優れていた証しともいえる。また、童画家の分野では大正デモクラシーの中で開花した『赤い鳥』をはじめとする児童文化の担い手を継承した童画第一世代といわれる絵本作家達、川上四郎、清水良雄、鈴木寿夫、武井武雄、林 義雄などの名前が見られる。
教科書に起用された画家達は、画壇の画家も童画の画家も教科書の挿絵を通じて国の復興に寄与するという使命感と創作への意気込みが大きく、その結果さし絵の芸術的水準の高い時代でもあり、後世の教科書をはじめとし児童出版物のさし絵画家達にも大きな影響を与えた時代でもあった。
(1)文部省著作教科書から検定教科書へ
昭和22年の学習指導要領による検定教科書の発行も各社・各教科の教科書がシリーズとして完成するのにほとんどの発行会社が2、3年の期間を要した。その間、文部省著作の教科書も採用されていたこともあり戦後第1期と言える昭和28年ごろまでのこの時代は文部省著作教科書と検定教科書の併用使用がなされ検定教科書への移行期でもあったといえる。それだけに、白紙の状態からスタートしたこの時代の教科書には発行会社の“教科書作り”の違いが、さし絵画家の起用にも出ている。
その代表的な例が、「東京書籍」と「二葉図書」の国語教科書(ともに昭和26年全学年シリーズ完成)に見られる。国定教科書翻刻発行会社から検定教科書に参入した東京書籍の『新しい国語』柳田國男ほか編では、国定教科書時代の『読本』や戦後の文部省著作教科書『国語』がそうであったようにさし絵画家の起用は1冊あたり1人である。それに対し児童書の発行会社から検定教科書に参入した二葉図書の『国語の本』西原慶一ほか編では、学年によって違いもあるが1冊に10人前後のさし絵画家を採用している。なお東京書籍と同じように国定教科書翻刻発行会社から検定教科書発行会社として再出発した日本書籍、大阪書籍もほぼ1冊につき1人の画家を採用しているのも興味深いことである。
昭和28年~35年の第2期になると第1期での経験を生かした画家の起用がなされるようになり、単元や教材内容にあわせた画家を選択するようになった。
戦後の教育復興にかけた関係者の意気込みがさし絵画家の起用にも現れ、水準の高い画家選びがなされている。大沢昌助、斎藤長三、鷹山宇一、田村孝之介、中尾 彰、堀 文子、向井潤吉、山下大五郎など当時の若手中堅画家の起用が目立ち、その画家たちが後には画壇の指導的重鎮になられたということは当時の編集者の鑑識眼が優れていた証しともいえる。また、童画家の分野では大正デモクラシーの中で開花した『赤い鳥』をはじめとする児童文化の担い手を継承した童画第一世代といわれる絵本作家達、川上四郎、清水良雄、鈴木寿夫、武井武雄、林 義雄などの名前が見られる。
教科書に起用された画家達は、画壇の画家も童画の画家も教科書の挿絵を通じて国の復興に寄与するという使命感と創作への意気込みが大きく、その結果さし絵の芸術的水準の高い時代でもあり、後世の教科書をはじめとし児童出版物のさし絵画家達にも大きな影響を与えた時代でもあった。
つづく














