18.修身‐その4
第三期の「修身」教科書は大正7年から大正12年にかけ巻一から巻六まで逐年で改訂された。大正初期、第一次世界大戦が勃発し、ロシア革命が起き、世界情勢は大きく変動する。日本でも民主主義や社会主義の思潮が台頭した。また世界的な新教育運動の影響を受け、デューイなどの新しい児童観・教育方法に基づき、教育改革が試行され特色ある学校が数多く設立された。大正7年には児童雑誌「赤い鳥」が創刊されている。「修身」の内容は第二期に国家主義に大きく振り戻されたが、第三期では社会的・国際的倫理が回復し、強化され、文章は児童に親しみやすい口語体となった。大正9年に日本は国際連盟の初代常任理事国となり、これに関連し『尋常小學修身書巻六』に「國交」単元が新設され、国際協調の精神が強調された。だが国家や家の道徳が基調であることに大きな変化はなかった。
第四期尋常小學修身:巻一巻頭(天皇陛下ろぼ)
大戦がもたらした空前の好景気は長続きせず、日本は戦後不況に陥る。世界的な民主主義の高まりの中、米騒動をきっかけに社会運動が激化、さらに関東大震災により世情は混乱した。また大正14年の治安維持法により言論弾圧が強まった。昭和に入ると、米国の株暴落に端を発した世界恐慌の波に我が国も飲み込まれ、街には失業者が溢れ、農村も疲弊した。昭和6年軍部は独断で満州へ軍を展開した(満州事変)。その様な状況下で第四期の改訂が行われた。その特色を見ると、先ず表紙が薄青色に花模様を浮かしたものとなり、巻三まで挿絵がカラーになり、文章も増量し親しみやすくなっている。大正の新教育の影響がここに見られる。しかし編纂方針には「忠良ナル日本臣民タルニ適切ナル道徳ノ要旨ヲ授ケ」「殊ニ國體觀念ヲ
第四期尋常小學修身:巻二巻頭(神武東征)、巻三巻頭(皇大神宮)
その後、我が国では五・一五、二・二六事件を経て軍部が著しく台頭し、思想的に軍部と反対の立場にたつ者は国運の発展を妨げるものとして弾圧され、教育においても「国体
(教学刷新:大正新教育により進められた学校教育の自主的改革を志向する教育運動に対して、日本古来の
第五期初等科修身三:「軍神のおもかげ」
第五期初等科修身三:「靑少年學徒ニ賜リタル勅語」
太平洋戦争開戦後、政府は、軍需を最優先し国民生活を極度に切り詰め、「学徒出陣」や「勤労動員」に象徴される如く、兵力、労働力として根こそぎ動員した。しかし昭和20年8月、日本は人類史上はじめての原子爆弾の投下をうけ、永きにわたる戦争はようやく終結した。日本の国土は焦土と化していた。昭和20年12月末、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により、「修身」は「地理」「日本歴史」と共に停止となり、教科書は回収され、廃棄された。「修身」はこの国土から姿を消した。その後昭和22年に教科書は民間発行による検定制度となり今日に至っている。そして戦後73年を経て、道徳が教科となるが、戦前のように軍部の暴走を許し、マスメディアが国民に真実を報道せずに対外強硬論を助長するようなことのないよう、また思想弾圧には明確に対峙できる社会倫理の教育を望む。
*講談社昭和37年刊;日本教科書大系修身参照
※資料は全て東書文庫蔵
(荒井登美也)