4.適塾
2016年12月
時代的には前回の「藤樹書院」からずっと下ってしまうが、今回は蘭学塾「適塾」に触れてみたい。蘭学は、漢訳蘭書の輸入制限緩和を契機とし『解体新書』刊行などにより萌芽し、医学のみならず語学、物理学、天文学、測地学、化学、砲術の分野で発展し日本を近代化へ導く。江戸、大槻玄沢「芝蘭堂」の四天王の一人橋本宗吉により大阪に根付いた蘭学系譜は「適塾」により隆盛を見る。緒方洪庵(1810~1863)、諱は惟章、適適斎と号した。岡山県足守の人である。16歳で大阪に出て中天游の門に入り、22歳で江戸へ行き坪井信道からも蘭学を習う。一旦郷里に帰り、再度大阪を経て長崎へ蘭学修行に赴く。この時緒方洪庵と名乗る。天保9(1838)年大阪瓦町に適塾を開き八重と結婚、29歳であった。
緒方洪庵坐像
開業2年目、洪庵は大阪における医師の評判番付に、早くも東の前頭4枚目に置かれ頭角を現している。瓦町の家は狭隘で、開業八年目に過書町(現大阪市北浜三丁目)に町屋を購入し拡張した。この建物は我が国の蘭学塾の唯一の遺構であり、史跡・重要文化財として商都北浜のオフィス街に町家風情を留めている。そしてこの地から幕末・維新の日本を支える多くの人材が輩出されていく。この北浜という地は堂島川や土佐堀に近く、各藩の蔵屋敷や銅座があった。各地との船便も多く、江戸期における海外情報の移入地の長崎にも近く、海外先進文化・技術に非常に近距離にあった。地の利を得たところに塾を移転したのも洪庵の時代の変化を感じとる先見性であろう。
歴史科教授用参考掛図 ペリー饗応の図其の壹・其の弐(東書文庫蔵)
嘉永6(1853)年ペリー来航に続き、翌年大阪湾にロシア軍艦ディアナ号も来航している。それを目の当りにした洪庵は世界における英米の力を認識し、英学の重要性を悟る。塾生(箕作秋坪)から高価な英蘭辞書を2冊購入し英語学習も開始した。時代の転換期における洪庵の見識の高さを示すエピソードである。適塾からは多くの人材が輩出されているが、代表的なのは明治の教育者・思想家の福澤諭吉であろう。他にも長州藩士大村益次郎、開明家で安政の大獄で刑死した橋本佐内、函館戦争の大鳥圭介、高松凌雲などがいる。諭吉はその後中津藩の命令で江戸に出府し蘭学塾の講師となるが、やはり英語の必要性に気づき、学習を開始する。そののち、渡米、渡欧後から明治期に、英語辞書や多くの翻訳書・啓蒙書を表している。
華英通語
(安政7年:諭吉が咸臨丸で渡米の際購入、編集)
華英通語
(安政7年:諭吉が咸臨丸で渡米の際購入、編集)
洪庵の業績のもう一つは、牛痘種痘法を全国に広げたことと、安政5(1858)年に長崎から始まり江戸まで拡大したコレラに対し、『虎狼痢治準』を出版し医師たちの処置指針としたことであろう。文久2(1862)年、度重なる幕府の要請により奥医師謙西洋医学所頭取として江戸に出仕するが、翌年突然、喀血し窒息により死去。享年54歳であった。適塾開塾の前年には大塩の乱があり、また翌年には蛮社の獄が起きている。蘭学にとり厳しい時期であったにも係わらず、多くの人物がその人柄にひかれ、新しい価値を求め、集い、巣立っていった。洪庵の最大の功績は教育者として、欧米国家のアジア進出に伴う近代化という大きな波浪の中で、多くの開明的な人材を育てたことである。
西洋旅案内(慶応3年)
増補西洋事情(慶応4年)
(荒井登美也)